ご挨拶
伊藤郁子は2019年5月12日、散りゆく桜とともに旅立ちました。故郷函館を愛し、人を慈しみ、時には世界を巡り、溢れる情熱で描き続け、教え子を育て続けた84年の人生でした。
その間、恩師の導きや多くの皆様のお力添えをいただき、お陰様で画家としての生涯を全うすることができました。心より感謝申し上げます。
本サイトでは、伊藤郁子のアート作品を掲載しておりますので、ぜひご覧ください。
遺族一同
お知らせ
2024年11月20日 | 函館市総合福祉センター(あいよる21)を訪問しました |
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2024年9月30日 | 函館市地域交流まちづくりセンターを再訪しました |
2024年9月30日 | 函館市女性センターを訪問しました。 |
伊藤郁子の人物像
伊藤郁子は重い障害を抱えながらも、画家としてまた美術指導者として人生を全うした。
2歳で小児麻痺にかかり、歩行に困難をきたす不自由な日常を余儀なくされたが、
持ち前の明るさと前向きな姿勢で、84歳で亡くなるまで画業と教え子の指導を続けた。
女子美術大学同窓会の函館支部の設立にも尽力し、晩年まで支部長を務めた。
その画業や美術教育への
貢献により、2007年、函館市文化団体協議会(当時は加納裕之会長)から白鳳(はくほう)章を受章している。
白鳳章は函館、道南を拠点に文化、芸術活動に励む個人・団体が対象で、長年の活動で市の芸術・文化の振興に貢献した個人、団体に送られる章である。
函館新聞の記事によると、受章理由として、「58年から絵画の指導を続け、生徒は400人以上。画家としても個展、グループ展を多数開催し、函館の絵画普及に貢献。」とある。
後半生は車椅子生活となったが、眼前の感動をキャンバスにぶつける姿勢を貫き、写生旅行に数多く出かけた。
故郷の函館近郊はもとより、国内や海外へも精力的に足を伸ばした。
常に友人や家族、教え子が訪れる自宅兼アトリエで、最後まで自立して生きた。
誰でも分け隔てなく迎え入れる、おおらかさと優しさに溢れた人柄から、多くの人々に愛され慕われ、時には助けられながら最後まで笑顔で過ごした。
明るく透明感のある画風とともに、困難を柔らかに乗り越え人生を重ねる姿に、出会った人々は力づけられた。
人々に笑顔と安らぎ、そして生きる勇気を与える存在であり、その生涯であった。
障害者の自立が叫ばれる昨今であるが、その何十年も前の時代から、自分の力で、自立して生きた一人の画家「伊藤郁子」である。
伊藤郁子の美術指導者としての足跡
大学卒業すぐに自宅で美術教室を始め、
84歳で亡くなる3日前まで63年間にわたり、絵画指導を続けていた。
教え子は400人以上で、
4歳の幼児から90代の高齢者まで教えていた。
美術教室の生徒は美術公募展等に多数応募入選。
美術教室展も函館市芸術ホールやNHKギャラリー等で20回以上、開催している。
美術大学受験指導にも長年にわたり熱心に取り組み、
女子美術大学はじめ東京芸大、武蔵野美大、多摩美大、教育大等に多数合格。
地元の高校教員から美大指導の実力をかわれ、受験生の指導を数多く依頼されていた。
教え子は画家や大学、小中学校の美術教員等としても現在も多数活躍している。
・版画家 菊池俊治
・絵本作家 イラストレーター 味戸ケイコ
(アンパンマンで有名な、やなせたかし氏に見いだされ活躍)
等も教え子で、
遺作展には追倬文も
お寄せいただいた。
一般社団法人「女子美術大学同窓会」の函館市支部長を亡くなる前年まで務め、東京から招いたモデルのデッサン会を開催するなど、地域の高校生や美術指導者、画家仲間などの研鑚の機会を提供し、地域貢献にも励んでいた。
また、2016年5月に開催された大村智女子美術大学名誉理事長のノーベル賞・文化勲章記念祝賀会には函館支部長として出席した。